ウィーンのモーツァルト》右図:ブルク庭園のモーツァルト像) モーツァルトは1762年、6歳の時に初めてウィーンを訪れシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアに謁見し演奏を行いました。その後、11~12、17歳の時にもウィーンを訪問しています。1781年、ザルツブルグの宮廷オルガニストであったモーツァルトはウィーンで雇用主であるザルツブルグのコロラド大司教と衝突し、解雇同然の仕打ちを受けてオルガニスト職を放棄します。そしてこの年以降、モーツァルトはウィーンに定住し、独立した音楽家としての活動を始めます。この時モーツァルトは25歳でした。彼はその卓越した才能によりウィーンで高い人気を得ました。1784年にはフリーメーソンのメンバーになっています。26歳でコンスタンツェと結婚し6人の子供を授かりましたが、当時は乳児死亡率が高く、無事に成人したのはカールとフランクの2人の息子だけでした。モーツァルトはウィーンで音楽家として成功を納めますが、その一方で借金生活を余儀なくされました。彼は莫大な収入を得ていましたが支出も多く、また賭博にも手を出していたようです。

モーツアルトが1781年、コロラド大司教の命令によりミュンヘンからウィーンに来た時、シュテファン寺院近くの「ドイツ騎士団の館(右図)」に2か月ほど滞在しました。この館は当時、コロラド大司教の叔父の邸宅であり、大司教は父親の見舞いのためここに滞在していました。ウィーンに魅せられていたモーツァルトは、この館を舞台としてコロラド大司教と衝突します。これは自らの音楽家としての成功を確信していたモーツァルトが、大司教による束縛から逃れようとしたためです。そして、最後まで大司教の命令に従おうとしないモーツァルトが侍従のアルコ伯爵に尻を足蹴にされ、追い出されたのもこの館での出来事です。現在、この館の壁にはモーツアルトが滞在したことを示すプレートがあります。

モーツァルトはウィーンに10年間住みましたが、その間に14回の引越しをしています。このうち1784~1787の間、彼が最も恵まれた時期を過ごしたのがウィーンの一等地にあるドームガッセ5番地の2階(洋式では1階)の住居です。現在はMOZARTHAUSという博物館(左図)になっており、モーツアルトが住んでいた当時の様子が再現されています。この博物館は年中無休で、旅行者には大変有難い施設です。モーツァルトはこの家でフィガロの結婚などを作曲しており、そのためここは以前「フィガロハウス」と呼ばれていました。ここは6つの部屋とキッチンから成る豪華な住居で、広いスペースがあり家賃も高かったであろうと思われます。最も大きな部屋には玉突き台が置いてあり、モーツァルトは妻のコンスタンツェなどと玉突きに興じていたそうです。ここではモーツァルト父子達による弦楽4重奏のコンサートがハイドンも主賓として開かれています。また、この部屋の窓からはブルートガッセが見通せ、その奥にはモーツアルトが最初に滞在し、ザルツブルクでの職を解雇される事件の舞台となった「ドイツ騎士団の館」が見えます。博物館の説明にもあるように、ここに住んでいた当時のモーツァルトには感慨深いものがあったと思われます。

モーツァルトは1791年に亡くなりますが、この年、古くからの友人であるシカネーダーの依頼により、オペラ「魔笛」を作曲します。当時、お金の工面など身の回りの問題で精神的に追いつめられていたモーツァルトは酒浸りで作曲をしていたようです。このオペラはヴィーデン劇場で9月30日に初演が行われ、大成功を納めます。また、この年の7月にモーツァルトは名前を名乗らない依頼者から「レクイエム」の作曲を頼まれています。彼が最後に住んだ家はラウフェンシュタインガッセ8番地にあった建物です。現在はSTEFFLという衣料品主体のデパートの一部として建て替えられています。このデパートの7階は飲食店フロアですが、その入り口のエレベーター横にモーツァルトの胸像が置かれています(右図)。この像は19世紀半ばにヨハン・バプティスト・フェスラーにより作られたものです。このデパートの正面はケルントナー通りに面しています。

モーツァルトの死因は諸説あり、病気以外に毒殺説もあります。モーツァルトの葬儀は12月6日にシュテファン寺院の北翼部分にあるクルツィフィクス礼拝堂(左図)で行われました。未亡人であるコンスタンツェにはお金がなく、後援者が葬儀費用を負担しています。葬儀は、親族と友人たちの立会いの下で質素に行われ、葬儀の後、遺体は霊柩馬車で聖マルクス墓地へ運ばれました。当時は墓地まで付き添う習慣は無く、またこの日は寒く強風が吹いていたため参列した人々は途中で引き返しました。馬車から墓掘り人夫に渡された遺体は亜麻袋のまま、他の数人の遺体と共に共同墓穴に入れられたようです。墓掘り人夫以外の立会人は居なかったためモーツァルトの埋葬位置は明らかになっていません。現在、マルクト墓地には埋葬推定位置に記念碑が建てられています。