1792年11月初めに、駅馬車でボンを発ったベートーヴェンは、途中フランス軍とドイツ軍の戦火を潜り抜け、5年ぶりにウィーンに到着します。ベートーヴェンは、到着後すぐにハイドンのレッスンを受け始めます。しかし、ハイドンの下でのレッスンは長く続かなかったようです。ハイドンはロンドンへの演奏旅行等で忙しく、ベートーヴェンまで十分に手が回らなかったためと言われています。ベートーヴェンは、ハイドンの他にも、ヨハン・シェンク、シュテファン大聖堂楽長のヨハン・ゲオルグ・アルブレヒツゲルガー、宮廷楽長のアントニオ・サリエリらに師事し、新しい表現技法を磨きました。

当時のウィーンではハイドンとモーツァルトの音楽が愛好されていました。モーツァルトは、ベートーヴェンがウィーンに移る前年の1791年に亡くなっていますが、彼は真珠を転がすようなスタカート気味のエレガント奏法などで人気を得ていました。これに対しベートーヴェンはレガート奏法とカンタービレ奏法を用い、華麗な技巧的パッセージや圧倒的な力と情熱と感情表現を持つ彼の演奏が生み出す響きは、ウィーンの人々にとって新鮮なものでした。ベートーヴェンはリヒノウスキー公爵邸でのサロンコンサートを中心に作曲家、演奏家として活動し、リヒノウスキー侯を始め、スヴィーテン男爵など有力貴族との親交を築き、ウィーンでの足場を固めていきました。

パスクアラーティ館の入り口です。ベートーヴェンはここの5階に住んでいました。現在、そこは記念館になっています。

ベートーヴェンは頻繁に住居を変えたことで有名です。ウィーンでの引越回数は30回とも40回以上とも言われています。ベートーヴェンは傲慢で、自己主張が強い性格であったようで、この性格が引き起こす周囲とのトラブルが転居の主な理由と思われます。そんな中で最も長く(通算11年間)住んだ住居が、メルカーバスタイにあるパスクアラーティ館の5階です。この館は高台にあり、部屋の窓から広がるウィーン郊外の見晴らしは素晴らしかったと思われます。ベートーヴェンはこの家で交響曲5、7、8番やフィデリオなどの多くの曲に取り組みました。ここは現在、ベートーヴェンの記念館になっています。アンデアウィーン劇場もベートーヴェンが住んだ場所です。劇場支配人のシカネーダーと契約を結び、オペラ製作者として住み込みました。この劇場はベートーヴェン自身の指揮により、交響曲3、5、6番の初演が行われた事でも有名です。

アンデアウィーン劇場のパパゲーノ門です。ここは当時の面影を残しています。門の上にはモーツァルトのオペラ、魔笛でパパゲーノに扮するシカネーダーと彼の息子たちの像があります。

またベートーヴェンは、夏はウィーン市内を離れ、郊外で過ごすことを好みました。1802年のハイリゲンシュタットに続き1803年はオーバーデーブリングに引きこもり、交響曲第3番に取り組んでいます。この時に住んだ家は現在“エロイカハウス”と呼ばれる記念館(右図)になっています。

 ベートーヴェンは28歳頃から難聴に悩み始めます。また腸疾患にも悩んでいました。恐らく、これらの病気のためか、ベートーヴェンはうつ病を患ったようです。そして1802年に滞在していたハイリゲンシュッタットで遺書を書きます。これは弟たちに宛てた形で書かれており、難聴のために社会から誤解される苦しみなどを訴えています。下左が遺書の家、右はその中庭です。

しかし、ベートーヴェンはその苦しみを克服し、強い決意に満ちてウィーンへ戻ります。そして、この時期にベートーヴェンは、明るく憂鬱さの無い交響曲第2番を作曲しています。ベートーヴェンが遺書を書いた家は“ハイリゲンシュタットの遺書の家”と呼ばれ、ベートーヴェン博物館になっています。下図は、博物館に展示されているシュライヒャーのフォルテピアノとベートーヴェンの作曲風景の絵画です。

ベートーヴェンは、のどかな平原が広がるハイリゲンシュタットを気に入り、生涯に何度も逗留しました。同地には“遺書の家”の他にもベートーヴェンが住んだ家が数 軒残っています。ベートーヴェンは自然の中を逍遥することを好み、曲想を書き留めるためのスケッチ帳を持ち、毎日のように散歩に出かけたようです。ハイリゲンシュタットにはベートーヴェンがよく散歩したという‘ベートーヴェン・ガッセ“という名の小径が残っています。今は住宅が立て込んで当時の面影はありませんが、小川に沿った静かな道です。下の左と中の図がベートーヴェンガッセ、右はハイリゲンシュタットのベートーヴェン像です。

ベートーヴェンがよく滞在した郊外の町には、バーデンがあります。バーデンは高級保養地であり、ウィーンの25kmほど南にあり、当時は馬車で3時間ほどの距離でした。ベートーヴェンは1803年から1825年の間に17回、バーデンを訪れています。ここでもベートーヴェンはよく散歩をしたようです。バーデンでもベートーヴェンは多くの逗留先を持っていました。その内の一つ、1821年から23年まで暮らしたラートハウスガッセ10番地の家が、ベートーヴェン記念館になっています。ベートーヴェンはこの家で交響曲第9番の大部分を作曲しました。

ベートーヴェンの時代はフランス革命とナポレオン戦争の時代でもあり、彼はその時代の波を大きく被っています。ベートーヴェンが住むウィーンは1805年と1809年の2回、ナポレオンにより占領されました。1805年に初演されたベートーヴェンのオペラ“フィデリオ”は、ウィーンに侵攻したばかりの、ドイツ語が分からないフランス兵が観客の大半を占めたこともあり、失敗に終わりました。

一方、ベートーヴェンはボン時代からフランスの啓蒙思想に共感しており、交響曲第3番をナポレオンへ献呈することも考えていたようです。しかし1804年5月、ナポレオンの皇帝戴冠を聞いたベートーヴェンは、交響曲第3番の表紙を破り捨て、曲のタイトルを“ボナパルト”から“英雄”に変えたという逸話があります。

1815年に弟のカスパル・カールが亡くなります。この時、ベートーヴェンは、カスパルの息子である甥のカールを引き取り、自らが教育しようとします。そしてカールに、学校教育に加え、弟子のツェルニーによるピアノレッスンを受けさせます。しかし、ベートーヴェンの過度の愛情と干渉に耐えかねたカールは11年後の1826年に自殺未遂を起こし、これによってベートーヴェンは大きなショックを受けます。

1817年のベートーヴェンは病気がちで、ハイリゲンシュタットで療養します。そしてピアノソナタ“ハンマークラヴィーア”を作曲していますが、彼の健康状態は芳しくなく、内臓疾患に加え、難聴もひどくなりました。そのため他人とのコミュニケーションは会話帳を使って筆談で行っていました。春になると、甥のカールと共にウィーン郊外のメードリンクへ移り、そこで10月まで過ごしています。ハイリゲンシュタットやバーデン同様、メードリンクが気に入ったベートーヴェンは1818年から1820年の3年間の間は毎年、約半年間をここで過ごしています。

 1820年末から1821年の初めにかけて、ベートーヴェンはリューマチ熱を患って寝込んでいたようです。その後も健康はすぐれず、初夏のころには黄疸の症状が出てきました。そして、主治医の勧めに従い、9月からバーデンで療養につとめました。そのせいか健康を回復し、ミサ・ソレムニスの作曲と共に、最後の2曲のピアノソナタ、31番、32番の作曲にも取り掛かりました。

1822年にはイタリアの作曲家、ロッシーニがウィーンのベートーヴェンを訪ねてきますが、この頃ベートーヴェンはすっかり聴力が衰えていたため、十分な会話ができませんでした。ロッシーニは後に、この訪問について「ベートーヴェンと会えただけで満足だ」と語っています。その頃、シューベルトもベートーヴェンを訪れています。シューベルトは生涯、ベートーヴェンを敬愛し続けました。1823年には11歳のリストの演奏を聴いて、その演奏に魅せられたベートーヴェンが、リストを抱き上げてキスをしたという逸話があります。

1824年5月7日、交響曲第9番がケルントナートーア劇場で初演され、満場の聴衆から熱狂的な拍手を受けました。この時ベートーヴェンは客席に背を向けていましたが、女性歌手に促されて振り向き、初めて観客の喝采に気付いたと言われています。

1825年にはロンドン訪問の話が持ち上がりますが、報酬で折り合えず実現しませんでした。この年の2月には“変ホ長調”弦楽四重奏曲作品127が完成します。引き続き、ベートーヴェンは“イ長調”四重奏曲作品132に取り組みますが、過労のため体調を崩します。その後、バーデンで保養して健康を回復したベートーヴェンは、8月にこの曲を完成させ、さらに12月には“変ロ長調”四重奏曲作品130を完成させました。

1826年の秋から、ベートーヴェンは、夏に自殺未遂を起こした甥カールと共に、弟ヨハンのグナイクセンドルフの家に滞在しました。しかし11月末、突然ベートーヴェンは寒風の中、幌も無い粗末な牛乳運搬車に乗って強引にウィーンへ帰ります。突然の出発の理由は、カールの将来についての弟ヨハンの手紙に起因するものと思われます。そしてベートーヴェンは、この悪条件の重なった旅で体調を崩し、ウィーンで寝込んでしまいます。1827年の年明け頃、ベートーヴェンの健康は小康状態となりますが、その後は悪化していきます。そして3月26日の夕方、最後の住居となったシュバルツシュパニエ通りの黒いスペイン館の3階の部屋で、56歳と3か月の生涯を閉じました。葬儀はアルザーシュトラーセの三位一体教会(下左図)で行われ、ヴェーリング墓地に埋葬されました。その後ベートーヴェンは、1888年6月にウィーン中央墓地に移葬され、現在もそこに眠っています(下中図)。下右図は遺書の家にあるベートーヴェン像です。