ショパンは1810年、ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれました。4歳の頃から母や姉からピアノを習いました。6歳の時には、即興に才能を示すようになり、ヴォイチェフ・ジヴニー先生が教えに来ました。ジヴニー先生からモーツァルト、バッハ、ハイドン、フンメルを学びました。ただ、ショパンは才能に恵まれていたので、この先生から演奏法の指導を受けることはありませんでした。そして、7歳で“ポロネーズ第11番ト短調”、14歳で“マズルカ第8番変イ長調”(Op.7-4)などを作曲しました。また、11歳からはエルスネル・ヴュルフェルに作曲やピアノを学びました。
少年時代のショパンは飾り気のない自然な性格で、ユーモア精神に溢れ、多くの良き友に恵まれました。父、二コラはショパンが、ラテン語、ギリシャ語、数学、文学、科学など、幅広い教養を身に付け、バランスがとれた人間に育つように導いていきました。
20歳でショパンは、ウィーン、ミラノ、パリへの演奏計画を立て、友人ティトゥスと旅立ちます。ところが最初のウィーンではショパンは冷遇され、不成功に終わります。ショパンのウィーン滞在中にポーランドはロシアに対し蜂起し、ティトゥスは戦いに参加するため、ショパンを残し帰国します。ロシア寄りであるウィーンは、ポーランド人であるショパンには暮し難い所でした。しかし、ショパンはここで、“スケルツォ第1番ロ短調”(Op.20)と“バラード第1番ト短調”(Op.23)を手掛けています。やがて経済的にも苦しくなったショパンは、1831年7月にウィーンを立ち、パリへ向かいます。その途中、ポーランド軍が敗北し、ワルシャワがロシア軍に占領されたことを知ったショパンは、自身の絶望と怒りを“革命”(練習曲第12番Op.10-12)に表現したと言われています。
ショパンは1831年9月にパリに到着しました。パリ到着後、ショパンはパリ音楽会の実力者であったパエルから、彼の弟子であるフランツ・リストを紹介されました。この時、リストは20歳で、ショパンの1歳年下でした。またパリでは、ミュンヘンで知り合いになったメンデルスゾーンとも再会しました。
1833年から1835年にかけては、ショパンの生活は上流階級の子弟へのピアノレッスンとサロンでの演奏を中心に、順調に進んでいました。1835年の旅行中に、ショパンはドレスデンで、ワルシャワ時代にピアノを教えたことのある、ポーランド貴族の娘、マリア・ヴォジンスカと再会します。しかしこの旅行中にハイデルベルクで体調を崩し、パリに戻った後、喀血しました。1836年、元気になったショパンはマリアと婚約します。しかし身分の違いやショパンの健康問題が障害になり、ヴォジンスカ家側によりショパンとマリアの婚約は1837年に破棄されました。
1836年の秋、リスト達から紹介され、ジョルジュ・サンドと出会います。ショパンにとってサンドの第1印象は良くないものでしたが、サンドはショパンに関心を持ちました。1838年にショパンとサンド一家は温暖な地で冬を過ごすために、パリを離れマヨルカ島へ旅に出ます。しかしマヨルカ島での生活は期待外れで、住居やピアノの配送遅れなどの様々なトラブルにより、ショパンとサンドは不愉快な思いを強いられます。1838年から1年間、ショパンはサンドと共にマヨルカ島に滞在し、持病となった結核に苦しみながら“バラード第2番ヘ長調”(Op.38)、“ポロネーズ(第3番イ長調、第4番ハ短調、)”(Op.40-1,2)、“24のプレリュード”(Op.28-1~24)等を生み出します。24のプレリュードの中では、第15番変ニ長調の“雨だれ”(Op.28-15)が特に有名です。“雨だれ”についてはサンドが、修道僧の霊が陰気で厳粛な葬列となって、聴いている者の前を進んでいくようだ、と述べています。
1939年6月、ショパンの病気が悪化したため、サンドはショパンを連れて自分の館があるノアンへ帰りました。この館はサンドが祖母から相続したものです。館は2階建てで、ショパンの部屋は2階の中央にあり、防音が施されています。ノアンはパリから約300km南にあり、館の周りには農村の風景が広がっています。ショパンはしばらくノアンで療養し、10月にパリへ戻りました。
ショパンはサンドと一緒にいた10年近くを、夏はノアン、冬はパリで過ごします。そしてノアンの落ち着いた日々の中で精力的に作曲に没頭しました。この時期には多くの名曲が生まれています。1839年には“ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調、葬送”(Op.35)、“スケルツォ第3番嬰ハ短調”(Op.39)、1841年は“幻想曲ヘ短調”(Op.49)、“ノクターン(第13番ハ短調、第14番嬰ヘ短調)”(Op. 48-1,2)、1842年には、最初の音楽教師のジヴニーと、少年時代からの親友であったマトゥシンスキが亡くなりましたが、これらによる大きなショックをよそに、ショパンは、“バラード第4番へ短調”(Op.52)、“スケルツォ第4番ホ長調”」(Op.54)、“即興曲第3番変ト長調”(Op.51)、“マズルカ(第30番ト長調、第31番変イ長調、第32番嬰ハ短調)”(Op.50-1.2.3)、そしてリストがポーランドの偉大さの表現と呼んだ、“ポロネーズ第6番変イ長調、英雄”(Op.53)などの大曲を作曲しています。
1843年は小品が書かれただけですが、“マズルカ(第33番ロ長調、第34番ハ長調、第35番ハ短調)”(Op.56-1,2,3)、“ノクターン第16番変ホ長調”(Op.55-2)など、半音階的和声と円熟した対位法を用いた曲が書かれています。1846年には、“ポロネーズ第7番変イ長調、幻想”(Op.61)や“ワルツ第6番変ニ長調、小犬のワルツ”(Op.64-1)を作曲しました。“小犬のワルツ”はショパンがノアン滞在中、くるくると走り回る小犬の情景を曲にしたものです。
やがて、ショパンはサンドの家族を巡る問題に巻き込まれ、その過程でサンドと決定的に不仲になります。ショパンがノアンを訪れたのは1846年が最後でした。サンドとは、1848年の春に一度だけ、偶然顔を合わせた時の挨拶が最後の会話となりました。サンドと別れた後、ショパンはパリで、生活のために多くの生徒にピアノレッスンを行いました。
1948年ショパンは経済的な成功を期待して、弟子のスターリングの要請に従いイギリスへ演奏旅行に出かけます。この旅行は、多くの演奏会をこなしたこともあり、ショパンの健康を悪化させました。ショパンの演奏は聴衆に感銘を与えましたが、演奏するショパンは死人のように見えたと言われています。
最後の年となった1849年にはショパンはほとんど病の床についていました。そして、10月17日に姉のルドヴィカや友人たちに見守られながら、39歳で息を引き取りました。