ベートーヴェンは1770年ドイツのボンで生まれました。祖父はボンのケルン選帝侯宮廷の楽長であり、父ヨハンも同宮廷のテノール歌手でした。ベートーヴェンは、ボンガッセ20番にある家で生まれました。
彼は4歳まで、この家で育ちました。この家は現在、ベートーヴェンハウスという記念館になっています。ベートーヴェンは、この館の三階奥の部屋で誕生しました。
父ヨハンはベートーヴェンを一流の音楽家にしようとして、幼い頃から息子にクラヴィコードのスパルタ教育を施しました。ヨハンは、幼いベートーヴェンを毎日のように怒鳴りつけ、暴力をふるうこともたびたびありました。ベートーヴェンは1778年にヨハンが主催する演奏会でデビューします。この時、ベートーヴェンは7歳3か月でしたが、ヨハンは息子を神童として印象付けるため、年齢を6歳と偽っています。
ベートーヴェンは1780年頃から、クリスチャン・ゴットロープ・ネーフェに師事し、彼から多大な影響を受けています。ネーフェはJ・S・バッハの“平均律クラヴィーア曲集”等を教材に用いて、ベートーヴェンにクラヴィコードやオルガンの奏法や作曲法などを教えました。ネーフェは誰よりもベートーヴェンの限りない才能を確信し、1783年の音楽雑誌に「必ず、第2のモーツアルトになるだろう」と、ベートーヴェンを高く評価する記事を寄稿しています。
1787年、ベートーヴェンは16歳の時ウィーンに行きモーツァルトに高く評価されたというエピソードがありますが、真偽は不明です。この、ベートーヴェンの初めてのウィーン行きは、母の病気により、二週間足らずで終わりました。
17歳で母マリア・マグダレーナが亡くなります。ベートーヴェンは、飲んだくれの父親に代わり一家を支えていかなくてはなりませんでした。生活の苦労が多い中、友人の紹介で知性と教養の溢れたブロイニング家に出入りし、同家の姉妹にピアノを教えました。ブロイニング家では、ベートーヴェンは家族同様に扱われ、幸せな時を過ごしました。そしてそこで、ウィーンの名門貴族出身で音楽愛好家だったヴァルドシュタイン伯爵と知り合います。後にベートーヴェンは彼にウィーン留学を進められることになりました。
1789年5月にベートーヴェンはボン大学に入学します。そして、啓蒙主義の推進者であるシュナイダー教授の影響を強く受けたようです。また、入学した2か月後にフランス革命が勃発しています。「自由・平等・博愛」というフランス革命の精神に、ベートーヴェンは強い共感を覚え、生涯これを理想としていたと言われています。また、ボン読書協で、ゲーテやシラーの作品や哲学について知識を深めていました。この時代に、後に交響曲第9番の合唱「歓喜に寄す」となる、シラーの詩と出会っています。
1792年、ベートーヴェンはボンを訪ねてきたハイドンに会い、弟子入りを許されます。そして、ハイドンの推薦もあって、ベートーヴェンは選帝侯からウィーンへの留学を許され、ボンを離れます。1845年、ボンのミュンスタープラッツにはベートーヴェンの像が建てられました(右写真)。後ろの建物は当時、フュルステンベルク伯爵邸で、像の除幕式には、そのバルコニーにプロシア国王や英国のヴィクトリア女王夫妻が臨席していました。幕が引かれた時、彼らはベートーヴェンが自分達に尻を向けていることに驚きましたが、ベートーヴェンが生前から無礼であったことを指摘されて、大笑いしたという逸話があります。