クロード・アシル・ドビュッシーは19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、フランス近代音楽を代表する作曲家です。彼は当時、既に新しい発展の可能性を失っていた従来の作曲技法に満足できず、自身の感受性を大切にして作曲を行いました。ドビュッシーは従来技法の枠を超え、和声の改革やリズムの解放を行い、5音音階や全音音階などを導入しました。

ドビュッシーは1862年8月22日にパリ郊外のサンジェルマン・アンレーで生まれました。父親は当時26歳のマニュエル・アシル・ドビュッシー、母親はヴィクトリーヌ・マヌウリで25歳でした。父は前年に海兵隊を除隊して結婚し、サンジェルマン・アンレーのパン街38番地に家を借りて瀬戸物屋を始めていました。この店の経営は芳しくなく、1864年末にクリシーに移りました。ドビュッシーが生まれて2年余りを過ごした家は、現在ドビュッシー博物館になっています。

ドビュッシーは4人の弟妹があり、幼年時代の暮し向きは楽ではなかったようです。両親はドビュッシーと弟の一人を手元に置き、他の子どもを父親の姉のクレマンティーヌに預けました。パリ・コミューンに参加した父親がヴェルサイユ政府軍により投獄され、窮地に陥ったドビュッシー達は1871年、カンヌに居たクレマンティーヌを頼りました。ここでドビュッシーは、アマチュアピアニストであったアントワネット=フロール・モォテ夫人にピアノの才能を見出され、彼女に無償でピアノを習います。そしてレッスンを受け始めて1年余り後の1872年10月22日に、ドビュッシーは10歳そこそこでパリ音楽院に入学を許可されます。

音楽院でドビュッシーは、マルモンテル教授のピアノ上級クラスに入室を許可されました。彼は音楽院のコンクールで良い成績を得ることもありましたが、一方で指導者を当惑させる生徒でもありました。1879年のコンクールで良い評価を得られずピアノ演奏家への道を閉ざされたドビュッシーは、1880年にエルネスト・ギロー教授の作曲法上級のクラスに入室します。そこでドビュッシーは、既存の作曲法教科書の公式に捉われず自分の耳を拠り所にして音楽を作り、教授たちを怒らせ、また戸惑わせました。1884年のローマ賞コンクールでドビュッシーは第一大賞を受賞し、その特典としてローマに留学しますが、この留学には身が入らなかったようです。20代前半のドビュッシーはワーグナーに傾倒し1888年と89年にバイロイトを訪れますが、その後ワーグナーの音楽に行き詰まりを感じ、ワーグナーを越える音楽を模索します。それは調性に基づく西洋音楽を変革する試みでもありました。

ドビュッシーの作品は年代的に以下のような5つのグループに分けられます。1)1880年代半ばまでの習作期の作品、2)1890年頃までの自己形成期の作品、3)「牧神の午後の前奏曲」から「ペレアスとメリザンド」に至る確立期の作品、特に「牧神の午後の前奏曲」はドビュッシーの音楽的な個性が確立された作品といえます、4)1910年頃までの「海」や「子供の領分」など、「ペアリス」の先に新しい様式を切り開いた発展期の作品、5)「聖セバスチャンの殉教」以降の自在の時期の作品。ドビュッシーは病気のため55歳で亡くなりましたが、長生きしていれば更に新しい様式を生み出したと思われます。ピアノ曲については、2)の時期に「月の光」を含む「ベルガマスク組曲」、3)の時期に「ピアノのために」、4)の時期に「版画」、「子供の領分」などが作曲されています。(上記の内容は「ドビュッシー」平島正郎著(音楽之友社)等を主に参照しています)